2017年2月4日土曜日

雪景色




天気予報では北陸や甲信越地方に寒波の影響で、積雪40〜50cm・ところによっては1mもの雪が降っているという。
 10年前のこの季節に南信州の「駒ヶ根」にいた私は、2度目の厳冬・薪ストーブ生活 を楽しんでいた。
 朝起きると室内の気温はマイナス2度、室外の温度計はなんとマイナス14度を指していた。そんな中、朝の日課である薪割りは、50cmの積雪に閉ざされた薪山を前にあきらめ、目覚めの気分転換に近くの小川へと散歩によく出かけたものだった。
 凍てつく空気の中で、せせらぎの沢音だけが響く小さな谷間を1時間ほど歩き、疲れるとポケットに忍ばせておいたタンカンで喉を潤す。
 ついでにナイフで半分に切り分け、野鳥のえさにと小枝に刺して置く。
 しばらく遠くから眺めていたが、ジッとして動かないでいると体が冷えてくるので、そそくさと帰路へ踵をかえし薪ストーブの燃える蔵へと戻るのだった。
 甲信越地方の降雪の知らせを聞くと、雪国の小さな河原のせせらぎのあの凛とした雪景色を、いまでも鮮明に想い出す。

      


2017年1月20日金曜日

「ガジュマル」の樹

 私は62年前の昭和30年に奄美大島の名瀬市(現・奄美市名瀬)に生まれた。
父と母の故郷、奄美の南部・瀬戸内町、加計呂麻の西阿室集落に一本のガジュマルの樹がある。
 私が幼いとき、この樹の一番下の龍の姿をした大きな枝には手作りのブランコが架けてあり、5〜6人の子供たちがいつも取り合って遊んでいた。
幼い子供たちにとって地上2mの高さから揺れるブランコは充分な高さであり、足下にある幅・深さ30cmほどの側溝を揺られながら越えるちょっとしたスリルに満ちていた。
 樹のたもとで、なつかしそうに見上げながら 母 曰く、
「母ちゃんが子供の時からこの樹はこの大きさだったよ…」

 今からさかのぼること500余年前・江戸時代初期の薩摩藩支配が始まる1600年頃まで沖縄と奄美の島々は「琉球國」という那覇・首里の尚家を国王とするひとつの小国家だった。
 当時の琉球は、タイ・カンボジアやマラッカ、フィリピン、そして明朝時代の中国や韓国・朝鮮、そして倭国・日本など近隣諸国との交易を中心とした海洋貿易国として繁栄していた。
 アジアの諸外国をはじめ遠くヨーロッパの国々からも「蓬萊国・ほうらいこく」として憧れられていた王国時代の琉球は「戦い」を否定し、易きことを互いに分かち合う「交易」を尊重し合い、王家を中心に万民に至るまで豊かな海洋交易社会を謳歌していたのだった。

 その社会の根幹には、ティダ(太陽)神とニライカナイ(海の彼方より幸せを運んでくる海来神)を信仰する、自然崇拝の神々と共に暮らす祈りの日々が存在していた。
 集落のほとんどは海辺にあり、その集落形成には神々が宿る多くの祈りの場所「立神・タチガミ」「拝山・ウガミヤマ」そしてガジュマルの巨木が立つ「拝所・ウガンジョ」の三カ所が定められていた。
 ニライカナイの神が最初に降り立つ場所として集落の海岸もしくは磯場にある大きな岩や小島を「立神」と呼び、朝に夕に日々崇めていた。「立神」に降り立った神は近くの岬を通り集落裏山の「拝山」を介し、集落中心の「拝所」に降りてくるのであり、その際の広場への降臨目印として「ガジュマル」の樹が存在していたのだ。  
 ガジュマルは「神の宿る樹」として大切にされ、一本の枝さえも人の手で切ることは許されなかった。その巨樹の下に人々は集い、祈りや祝いの宴の時には陽射しから大きな木陰をつくり、雨風をさえぎり、台風の荒れ狂う強風を和らげる役目をも担っていた。 
 巨樹老木「ガジュマル」の姿は、永き時を有するものに対して畏敬の念をいだくことを教え、それは海洋性集落社会において歳を重ねた老齢者を敬い崇め大切にする「学び」 として存在していたのである。
 美しき琉球よ 永遠なれ

2017年 新作手ぬぐい「ガジュマル・夕景」


2017年1月13日金曜日

新年のごあいさつ

2017年(平成29年)初日の出
新年 明けまして おめでとうございます
2017年(平成29年)

今年も 春から飛ばしまっせぇ〜
サバニ完成させて 南の海で アッチャコッチャと 暴れまっせぇ〜
潮を見方に 風をつかまえ 風吹く島へと
白波立つ大海原を 駆けぬけまっせぇ〜
志ある皆さん方 よろしゅう お頼み申し上げます。
帆なら 行きまひょカァ〜

チーム 風  

2016年10月28日金曜日

琉球〜奄美 ウルマの海

ウルマ〜珊瑚の島 


シーカヤックやサバニで琉球~奄美の島々を渡っていくと、白波立つ断崖絶壁の磯場をはじめコーラルブルーやエメラルドグリーンの色とりどりの珊瑚礁など、多種多様な表情を持つ海辺の陸地と対峙することになる。
物心ついたときには、珊瑚の海があたりまえだった奄美生まれのわたしは、島をはなれ多くの旅を通して改めて、その海の尊さに気付いたのだった。

琉球王国では、ウルは珊瑚、マは島を意味する。
琉球国に属していたかつての奄美は、動植物をふくめ海や山河における自然の生態系や、島に暮らす人々の生活風習、食文化、および言語にいたるほとんどが琉球と同じ琉球王国の文化文明と自然そのものだったのである。

漠然とながめていた海辺の景色がひとつの時の流れで観えたとき、その全ての景色がフラッシュバックして脳裏に現れ、幾万年という悠久の時の流れがスローモーションの連続したシーンとしてよみがえるのだった。


愛おしく美しきウルマの海、そして清き島々、
永遠なれ!



大地と空の間で

 

八合目の赤富士


 昇る朝陽をながめている。
ここは富士山の八合目あたり。遠く東の空に太陽が輝き、下界の緑の山々に霞がたなびいてきた。
 巨大なごろた石に腰掛け、夜が明け始める一時間前から東の空をながめていた。遥か彼方の遠くにたなびく雲界の上部の空が、細長い虹の帯に輝いている。しばらくして空は茜色に変わり高い雲々がピンクに染まった。そのとき大気が動き、突風が私の体を突き抜けて行った。やがて東の空は黄金色に変化し、紫色の雲の間に真っ赤な太陽が輝きはじめた。
 
 昨日の朝6時に、富士山五合目から頂上を目指す友人と私のふたりは、一般の登山道をあえて外し、風上側に5~600mほど回り込んで富士山の自然な山肌、つまり火山礫のガレ場とゴロタ石の急斜面を登りはじめた。
 その途中のダイナミックで圧倒的な巨大な景色に感動しつつも先を急ぎ、ふたりで声を掛け合いながら黙々と登り続けたのだ。
 陽が陰り気温も一気に下がってきた午後4時過ぎに、やっとの思いで標高3,000mの八合目までの標高差1,500mを約10時間をかけ、よじ登ったのだった。
 夕刻6時の日没までに簡単な夕食をすませ、岩陰に耐風・山岳テントを張り防寒シュラフに潜り込んだ時は8時を過ぎていた。深夜、風にばたつくテントに目覚めふと外をのぞくと、空には満天の星々が輝き、下界の街の灯りは天の川のようにキラキラと煌めいていた。
 遠く風下側の八合目登山道に縦一列の帯状に小さな灯の行列が頂上へとうごめいているのが見える。その数2~300人以上だろうか、たぶん山小屋から頂上での御来光を目指す人たちのヘッドライトの灯なのだろう……。

 風に吹かれながら朝陽をながめていた。


 真っ赤な光を全身に受けながら、六合目の森林限界あたりに凛と生きずくハイマツの老木を思い出していた。
 いったいあの樹はこの厳しい世界で何百年生きたのだろう?と。一夜を過ごしてもその老木の姿が脳裏を離れず、スケッチ画をとおして向き合う想いがこみあげてきた。
 朝食のコーヒーを飲みながら友人に、御来光ツアーの人の多さと老木のスケッチの話をした。そして我々はここ八合目からの下山を選択し、登山道へと渡って一気に六合目へと駆け下りていったのだった。
 

 そしてその老木に向き合って感じたことがある。
 地球の圧倒的な引力に抗う富士山の斗出した反発力・電磁波を、私の身体の背筋を垂直方向・天へと引き伸す強烈な磁力として、体を通して感じたのだった。
 全ては太陽の元で始まり、太陽に生かされ、太陽を中心に自然の摂理・調和が営まれ、大地と大気・空の間で、生きとし生けるもの全てが、その「太陽」を中心とした「大いなる調和」によって生かされているということを、体感を通し自分自身の感覚ひとつで理解できたのだった。

EVERYTHING UNDER  THE SUN

IS IN TUNE












2016年5月5日木曜日

旅とは

生きるための最小限の荷を担ぎ 大いなる「地」を踏みしめ、
思考と驚きと感動とともに、道なき路を歩む。
 静寂の無垢の森にて、命ある物たちの源である清流「水」と、
樹という生命エネルギーの炎「火」から全ての命の循環と継続、
その尊さを学び知り畏敬と感謝の想いとともに、
それらを我が身の糧とする。
 担ぎ、ともに旅する道具たちが原野へと誘う。
「風」吹きすさび身も凍る極地、
そこで太陽の温もりと光エネルギーの尊さを実感し、
そして確信する。

世界は、大地と天、そのはざまの大気「空」が
縦横無尽に風として流れ、太陽エネ ルギーに気化された雲が
雨となりその大気の流れとともに大地を潤し、
生きとし生けるものたちの命ある「調和の世界」を
育んでいることを。
真実は旅にあり、知ることの喜び。





2016年4月23日土曜日

「風」よ吹け!


大海原を自由に旅するために、
我々3人は昨年の夏サバニ・チーム「風」を結成し
座間味の海とウルマの海を翔けぬけた。





今年の夏、サバニ・チーム「風」
アキラ、シンペイ、そしてタカシの、 
新たな海旅が始まる。




「風」よ 吹け!